〒923-1267 石川県能美郡川北町壱ツ屋199 手取川クリニック 産婦人科 麻酔科 Tel.076(277)0100



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written by Canjamille Voyatzky

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2015/07/09

本音と建て前の狭間

「妊娠出産」は病気ではないが、皆が「病気」にならない訳ではない。
医学の進歩、医療者の努力によって日本の周産期死亡率、新生児死亡率は近年少しずつ減少傾向にある。
しかしながら、この数字の陰には、
数字からはわからないもっともっと遙かに多くの「大変だった」「心配だった」お母さんや子供たちがいる。
生命(いのち)は平等だけれど、いろんなことが平等になれなかった子供たちや、お母さん、お父さんもいる。
産まれる前、産まれた時、産まれてから、そして、この赤ちゃんが成長していく「人」となっても、
心配だったこと、これからも心配なこと、不安だったこと、これからも不安なこと、つらかったこと、
そういった思いからいつまでも解放されない多くのお母さんやお父さんたちがいる。
このクリニックを訪れる方、誰一人にこのような思いをさせたくない。
私たちの仕事は、まさにそこに関わっている。

産科医療で最も大切なことは、ひとりも「病気」にしないこと、これにつきる。
そのために、まず最初に私たちがそこに存在しなければならないと思う。
時には厳しく、そして優しく導きながら、
ひとりでも多くの方が健やかな出産の日を極自然に当たり前に迎える。
そして始まった陣痛、分娩の経過を暖かく見守る。
片時も目を離さず。
何も起こらないのか終わるまで誰にもわからないという事実。
何事もなく何もしなくても母児とも健やかな出産の日、誕生の日を迎える。
そう、出産の日と誕生の日は同じ。
元気な赤ちゃんの声を聞いて、初めて母にとっても健やかな出産だったということがわかる。
それは目標。
でも、残念ながら、これは『選択肢』ではないということに気づいてない人が多い。
誰もが選びたいこの当たり前の「選択肢」を、誰もが最初から選ぶことができないという現実。

自然はいつも人の味方ではない。
自然や病気は時として非常に冷酷である。
一瞬にしてすべての夢を奪っていくこともある。
それはわずかの甘えさえ許してはくれない。
何事もなく過ぎていく毎日の幸せの中で、
何の予告もなく、ある日、ある瞬間、突然やってくる。
それが私たちが存在しなければならない大きな理由だと思う。

だが、近年の産科医療のイメージには、この本来の使命が希薄に思われていないだろうか。
これは世の中から戦争や交通事故をなくすほどとても大変なことなのに。
私たちだけでなく、手取川クリニックを訪れる方にも気付いて欲しいことがある。
目を閉じていれば一歩先が断崖であってもわからないのだ。
誰一人にも、それを知らずに通り過ぎて欲しくない。
耳に優しいこと、常にそれのみが真実ではないということ。
私たちは、その瞬間の大きな盾でありたいと願う。
皆がいつまでも健やかであって欲しいと願う。
ともすればそれらは忘れ去られがちである。
その中で出産への価値観だけがどんどん多様化している。
原始時代からの人類のあらゆる営みの中で
最も原始的なままであるはずの「出産」という営みが、なぜそうなのだろう。
何か大切なものをオブラートに包み隠さなければ決してできないようなことが
その大切なことを伝えることなく行われてしまっている。
知りたかったこと、わからなかったこと、すべて透き通った中で「その日」を迎えることができたのであろうか。
いつまでたっても本音を語りたがらない医療サイドや真実を伝えないマスコミに疑問を禁じ得ないのは私だけであろうか。
聞きたがらないこと、聞きたくないこと、知りたがらないことは伝えない、
知らせたくないことは伝えない、面倒なことは話さない、
そういったスタンスの中からは、いつまでたっても妊娠出産の、そして産科医療の真実は伝わらない。
大きな『誤解』を是とした産科医療。
是としなければ批判を受けかねない中での産科医療。
本当に聞きたくなかったかどうかは聞いてみなければ、そして知ってみなければわからない。
本当の医療者が考え願う妊娠出産のあり方と皆が願う妊娠出産は、本来何一つ違えることはないはずなのだ。
聞いてほしい、訊ねてほしい。
願っていることは同じ。
何も包み隠さず、面と向かった本音の医療、
よそから見れば変わっているのかも知れない。
手取川クリニックはそういうクリニックでありたい。

2013/01/31

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(9)

これは私が産婦人科医になって2〜3年目頃のある出産での出来事である。
その時には意識はしなかったが、それから何年もたって経験を積み、
今のように無痛分娩をするようになっても、
物事の是非を判断する際に未だに自分の中で大きな影響を持っている出来事として、
つい昨日のことのように思い出される。

その患者さんは、20歳の妊婦さんであった。
20数年前の話である。
今でこそ10代の妊婦さんも珍しくはないが、20歳というのは当時ではまだ珍しい年齢である。
若くても浮ついた感じはなく、話し方も礼儀正しいしっかりとした印象の方であった。
若いので大丈夫かなという不安はあるのだが、態度や行動がそれを否定させていた。
妊娠中も特に変わったことはなく、普通に臨月を迎え、普通に陣痛が始まって入院されたのであった。
当時の自分は、まだ修行中の身であり、今のように良くも悪くも「勤務医」ではいられない時代でもあったので、
昼だろうが夜だろうが休日だろうが盆も正月もすべての出産に立ち会って関わるという良くも悪くも恵まれて大変な時期であった。
昼間の時間帯であったが、その出産にも私が経過を診つつ立ち会っていた。
経過は順調であり、普通に子宮口も全開大となり、普通に怒責して、普通に排臨となり、その後、無事、児頭が娩出した。
痛いのだががんばっており、少なくともそこまでは順調な普通と全く変わりのない状況であった。
そして、その出産は、その後すぐ終わるはずであった。

しかし、その瞬間、まさにその瞬間から状況が一変した。
その20歳の産婦さんは、瞬間的にもの凄い声で絶叫し、なりふり構わずもの凄い力で両脚を閉じ、
分娩台の上へ上へともがくように暴れ始めたのである。
児の頭部だけが外に出た状態で、である。
小柄な方ではあったが、こうなるとそれはとても1人や2人で制御できる力ではない。
こちらも大声を出し、自制を促しても、もはや全く聞く耳もなく、暴れるだけとなってしまった。
児の顔の色はすでに黒くなっており、どんどん状態が悪化していくのが手に取るようにわかる。
もはや、そこには今から母親になるはずだった「優しく理性的なヒト」が消え去り、
激痛に理性を失った「動物」のような存在がいるだけになってしまったのであった。
幸いなことに時間帯が昼間であったため、すぐ隣のナースステーションに数人のナースがいた。
一刻の猶予もないことは一目瞭然であった。
大声で彼女らを呼んで人を集め、とにかく力で下に引きずり下ろして脚を開かせ、児の頭を持って引っ張り出すしかない。
本人にはすでに理性は微塵もなく、ただただ暴れるだけであった。
抵抗はあっても「協力」はない。
結局、数人で押さえつけて、決して容易ではなかったが何とか赤ちゃんを取り出せた時には、
「もうだめか」と思えるような状態になってしまっていた。
産まれた時の赤ちゃんの元気さの指標として「アプガースコア」というものがある。
心拍数、呼吸状態、筋緊張、反射、皮膚の色、これら5項目それぞれを各0〜2点で表して合計10点とするものである。
厳しく評価しても通常は8点あれば、普通に元気に産まれてきたと考えて良い。
この赤ちゃんは、かろうじて心臓が動いていただけの1点でしかなかった。
死産にはならずに済んだのだが、すぐにNICUに入院となった。
障害が残ってもおかしくはなかったと思える状況だった。

産まれた直後、赤ちゃんの蘇生処置にばたばたしていた傍らには、
痛みが消え、我に返ってそれを見つめ呆然とし、
我が子を心配する「理性的で優しい母親」がそこにいた。
その時、彼女は何を思っただろうか。
赤ちゃんには何も選択できる権利はないのだ。


出産の辛さは千差万別である。痛みの感じ方も違う。
だが、おそらくは軽い人とひどい人では痛みが千倍も違うのではないか、
自分は多くの出産を診てきてそう感じている。
ウソみたいにあっけない方もいれば、人格が崩壊するのではないかと傍で見ていて感じる方もいる。

痛みの強さは比較のしようがない。
この方は、とてつもなく痛かったのだと思う。
これは間違いないと思う。
この方だけが特別に人並み外れて痛かった訳でもないのではないか、
皆と同じようにすごく痛かっただけ、
また、そうも思えるのである。

苦痛は人を変える。
理性も人を変える。
経験も人を変える。
知識も人を変える。
苦痛が理性に勝ったとしても、それを誰も咎めることなどできない。
何かが足りなかったのかも知れない。
足りていれば違う結果になっていたのであろうか。

母はただ、母であるだけで純粋に偉大である。
この赤ちゃんは、1か月ほど入院管理となったが、その後、無事退院した。
脳波も正常だったということであった。

2012/11/24

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(8)

播種性血管内凝固症候群
(DIC)

産科合併症において、これは死につながる可能性がある最も怖い異常のひとつである。
一般的には悪性腫瘍の末期や全身の感染症、広範な外傷、血管内皮の異常、大量出血などを原因として、
血液中の凝固因子(血小板や止血に必要なタンパク質など)が大量に消費され、正常な止血機構が機能しなくなる病態である。
通常の内科的疾患では比較的緩やかに起こってくることが多いが、
産科合併症では唐突に急激に発症することがある。
全身の血管内に血液凝固因子が大量に消費されるような血栓を生じることによって、
逆に止血修復困難な多発出血を生じ、MOF(多臓器不全)となって死に至る。

私がまだ、医師として3年目か4年目頃の出来事である。
それは、近隣の産科開業医A先生からの電話で始まった。
「妊娠中毒症で入院していた妊娠9か月の経産婦が、一昨日は何ともなかったが、
昨日の回診で心拍が聞こえなくなっていて胎児死亡になっていた。
今日朝から陣痛誘発で分娩させようとしたが出血が多く、今から緊急手術をしたいので応援にきて欲しい。」
そういう内容であった。
詳しいことはわからなかったが、いずれにせよ緊急事態に間違いがないと思えた。
上司であるB先生に「おまえも来い」と言われ、私もその医院へ向かうことになった。
その手術では、私は全身麻酔を行い、その医院の院長とB先生が術者として手術に入った。
その時にはすでに温存が困難で子宮全摘出が必要な状態となっていた。
妊娠末期子宮の摘出術は、決して簡単な手術ではない。
巨大に変貌を遂げた妊娠子宮には胎児を育てるために大量の血液が流れ、
血管はすべて怒張して巨大化し脆くなっている。
妊娠子宮は人体では最大の臓器と化しているのである。
迅速な判断や素早い止血操作がないと、いたずらに出血量が増えていく。

手術も麻酔も順調なはずであったが、
こんな場面で起こることが考えにくい誘因不明の心室細動を手術半ばの麻酔中に併発した。
後になって考えると、これがこれから起こってくることの「前兆」であった。
私にとって麻酔中の心室細動は初めての経験であったが、
幸運にもアドレナリンの投与と心臓マッサージだけでこの時は正常心拍が回復した。
戻らなければこれだけでも「死」を意味する。
大病院ならともかく、当時は今のように除細動器(AED)など普及してはいない。
怖い出来事であったが、手術も無事終わり、その患者さんはこれで一命を取り留めたかに思えた。
子宮を失うことにはなったが、結果は致し方ないものであった。
麻酔が醒め、患者さんの意識も戻り、B先生と私は安堵して帰途についた。

ところが、それから数時間してまた、A先生から電話があった。
「さっきの手術の患者さんが、呼吸が苦しいと訴えているので、そちらに搬送したい。」
電話の内容を聞いた時には、「出血量が多かったので、貧血で息切れがひどいのだろう」位にしか思えなかった。
搬送を受け入れることになり、ほどなくして救急車でその患者さんは運ばれてきた。
すぐに血液検査をした。
貧血は思ったほどではなかったが、血小板の数値がすでに異常に減少していた。
DICの発症であった。

手術時の出血量自体は決して少なくはなかったが、
それまでの出血を含めてもDICを発症するレベルではなかったと思えた。
妊娠中毒症であったこと、大量に出血したこと、誘発によって子宮の内圧が上がっていたこと、胎児死亡後1日以上経過していたこと、
そのどれもの誘因は単独でも十分に危険なものであることは、臨床医として未熟な当時の私にも理解できたが、
それまでの様子や妊娠経過がよくわからないため、詳しいことははっきりしない部分もあった。
今となって思えば、胎児死亡に至る以前にすでに潜在的なDICを発症していたのであろう。

産科DICへの道筋は主にふたつある。
ひとつは大量出血そのものによって凝固因子が大量に消費されてDICに至るケース。
これは目に見える発症要因であるので、出血量が危険な領域になれば対応も予測もしやすい。
もうひとつは今回のこのケースである。
妊娠中毒症や胎児死亡などに伴って発症する場合には経過は急峻である。
臨床医として未熟ではあったが、DICの診療経験も無かったわけではない。
何とかなるだろうと、この時の私はまだまだ楽観的に考えていた。
血小板輸血が必要なことは明白であったが、血小板はすぐには用意できない。
消費された凝固因子の補充として、院内で直ちに用意できるFFP(新鮮凍結血漿)の輸血を開始し、
これ以上の凝固因子の消費を防ぐため、タンパク分解酵素の阻害剤、ヘパリン、ステロイド、酸素投与など常識的な治療を開始した。
当面の治療によって、状態は落ち着いたかに思えた。
翌日には血小板輸血も開始し、これで徐々に快方に向かうものとスタッフすべても思える状態であった。

ところが、翌日になって、さらに血小板が減少していることが判明するのである。
DICの進行をストップできるどころか、遙かに悪化していた。
結果が出るのに時間がかかる入院時の検査も結果が徐々に戻ってはきており、
数字はすべて好ましいものではなかった。
重症の妊娠中毒症では、それだけでも胎盤機能が悪化して胎児死亡に至る場合がある。
子宮胎盤系の血管内皮の破綻が進んであり、
そこで血栓形成が進んで凝固因子が消費されることで胎盤機能が損なわれ、胎児への負担となっていく。
胎児死亡後の時間経過次第では、胎児細胞が自己融解を起こし、
さまざまな酵素、胎児タンパク、羊水などが破綻した子宮胎盤系から母体内に流入する。
陣痛誘発による子宮内圧が上昇は、不利に作用した可能性が高い。
羊水塞栓をも併発していた可能性、胎児細胞の融解成分がさらに引き込まれた可能性、
手術での出血によってそれ自体でも大量の凝固因子が消費された可能性、
いずれもDICの誘因としては、単独でも危険なものばかりではあった。
これらが、複合的に合わさり、激しいDICを起こしてきた「現実」が見えてきたのであった。

特殊な治療法など何もない。
定番とも言えるDICの加療をただ継続するしかなかった。
検査の数字は一向に改善しないばかりか、目に見える出血傾向が顕著になってきているのがわかった。
手術創からの出血、全身の皮下出血、子宮を摘出した際の膣の一番奥の断端創部からの出血などが次々に始まった。
出血はさらなる凝固因子の消費につながっていく。
全身状態が目に見えて日に日に悪化していくのがわかった。
まだ20歳台半ばの患者さんである。
その体力を信じて、どこかでこの悪循環を絶てることを期待して治療を続けるしかなかった。
すでに輸血は、濃厚血小板、FFPその他で、この段階でもすでに数十本を超えていたと思う。
大量の点滴も行っていた。
DICでは血管壁の透過性が著しく亢進してくる。
血管内の水分や電解質は大量に血管外に逸脱し、循環血液量が減少する。
血圧が低下し、放置すればショックに至る。
血圧維持のため、大量のリンゲル輸液を入れても、なかなか中心静脈圧が上がらず、ほとんどが瞬時に血管外に逸脱し、
一体これらの輸液はどこに消えるのだろうと思えるほどになっていた。
顔貌は浮腫で激しく歪み、意志の疎通もままならなくなりつつあった。
大きく膨らんだおなかには、呼吸が困難になるほどの大量の凝血塊があることが検査で判明した。
これはすでに全身の出血がままならない状態を意味していた。
すでに産婦人科だけではどうしようもない。
外科によって開腹、血腫除去が行われたが、それも数日の効果でしかなかった。
1週間ほどで2度目の開腹血腫除去が行われた。
MOFの症状も現れて始めていた。
肝機能の数値は数千を超え、腎不全の発症で尿が出なくなってきていた。
腎臓内科で透析治療を始めることになったが、この頃にはもう輸血量が2百数十本を数えていたと思う。
担当医であった私は、そこらあたりまでは数を把握していたが、そこからこの先、どれだけの輸血をしたのか、
それ以降はもはや、その全体数すらわからなくなっていた。
大量輸血による肝不全も併発した。
これに対しては血漿交換を行うしかなかった。
血液内科によってさらに大量の交換輸血が行われた。
若い体力のある患者さんであり、丈夫な心臓は、上の幼子を残してまだまだ死ねないと言っているように思えた。
やがて、患者さんの身体は、まったく別人のように膨れあがっていき、
皮膚の色は土色になり、顔も腫れ上がって二回りも三回りも大きくなっていた。
奇跡的な回復を願ったがそれは叶うことがなかった。
それから数日のうちについに帰らぬ人となったのである。

もうあとほんの少しで二人目の新しい生命が家族に加わるはずであった。
最高の幸せとの距離はこれ程までに紙一重なのか。
奥さんを失ったご主人と、母を失ったことを知らない上の小さな女の子だけが残された。
激烈なDICに対する医療の限界、自分の力の無さを思い知らされた。
私は、この時にこっぴどく打ちのめされ学ばされたことがある。
産科だけでは如何に無力なのかということ。
起こってしまってからではどうしようもないという現実。
もし、こんなことが起こらずに済む唯一のチャンスがあったとしたら、
過去の妊婦健診での何気ない会話のひとコマであったはずである。
しかしながら、その時には絶対的に何事もなさそうにしか思えなかったのかも知れない。
もう一度同じことがあったら、予測できる洞察力が持てるだろうか。

今のようにNST(ノンストレステスト)はまだまだ一般的ではなかった時代である。
入院後にも、もしかしたら、助けられるチャンスはあったのかも知れないが
「後医は名医」であり、
結果のみで論ずるのは難しいと思えた。
私は、この後2年ほどたって、産婦人科での限界を感じて麻酔科での修行を決意することになるのだが、
自分の中には、この患者さんの診療に加わっていた麻酔科医でもあった外科のC先生の姿があった。
C先生は、今、救命救急部のドクターである。

ひとりでできることには限界があるから、チームで医療をする。
これは当たり前であろう。
だが、個人の持つその限界に甘えているようではレベルの低いチームの一員でしかない。
最初はチームではないのだ。
何かあってからのことを考える前に考えなければならないことがある。
ひとりでできること、その限界が大きくなればなるほど、
ひとつ間違えばとんでもないことにつながっていたかも知れないことを、
あたかも何事もなかったかの如くかわすことができる「力」になることに気づいた。
「何事もなかったのごとく終わっている」、これが重要なのだ。
何かがあるかも知れないことを常に肯定すること。
産科医が産科でしかなかったら、現実には途方もなく無力でしかないことがあるのだ。
何事もなかったかどうかは誰にもわからない。
それは紙一重でかわしたのかもしれないし、本当に何もなかったのかもしれない。
それはわからない。
だが、それが唯一、重要なことなのだ。

今は、あの時残された幼子にもお子さんが生まれているかも知れない。
20年以上前の話である。
合掌。


※「妊娠中毒症(当時)」=現在は「妊娠高血圧症候群」という呼称に変わっている。
※「NST=ノンストレステスト」=胎児の心拍と子宮の収縮外圧を計測して胎児胎盤機能の状態を知る検査。
※「MOF」=多臓器不全。

2010/03/13

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(7)

医師には「宗教観」が必要だと言われるが、残念ながら自分にはそれがない。
よく外来で、これからどうしていったら良いか判断に困るような場面で
「もし、神様が未来がこうなると言ったなら・・・・」という話をすることがあるのだが、
それは私が神様を信じているからではなく、すべての偶然やどうなるかわからない多くの未来予想の中から
ひとつひとつの事実を積み重ね、それらを「過去」から「現在」、「未来」へと積み上げていく存在として
「神様が決める」という言い方をすると説明がしやすいからに過ぎない。
まったく偶然にしか思えない振って出るサイコロの目も、
投げた方向や角度、跳ね返る力などを考えれば、結果は決して抽象的な「偶然」ではなく、
考え方次第では物理的な「必然」になるのだ。
これを「偶然」と言ってしまえばそれまでなのだろう。



その患者さんは、外科からの紹介であった。
38歳か39歳位の方であったと思う。
もう外科で退院の日も決まっている「胆石」での胆嚢摘出術後の方であった。
以前から生理不順がひどく、まったく何時来るかわからないということであったが、
4ヶ月もないことは今までもなかったからというのが紹介されてきた理由であった。
御本人も、病気のストレスか何かでそうなっていると思い込んでいたようであった。
診察した結果、すでに妊娠18週か19週、妊娠5ヶ月の中頃の赤ちゃんがおなかの中にいた。
これを超音波で見た時には、その方も大変驚いておられた。
胎動を感じるか感じないか微妙な時期である。
話を聞くと、その方は、結婚してから10何年も子供に恵まれず、もう完全にあきらめていたということであった。
何か吐き気がひどいため、外科を受診したところ、偶然「胆石」や軽度の「胆嚢炎」が見つかった。
もちろん、御本人はまさか妊娠だなどとは露ほども考えていなかったため、
特に外科のドクターにも告げることもなく、その後、胆管造影、胃の透視や、腹部CT、
いろいろな薬の服用を経て、先の手術となったのであった。
手術となった以上、当然、手術中の麻酔薬、電気メスの使用、手術後のレントゲン、術後の点滴や薬剤など、
使用した薬剤をすべて確認しても、決してこれならと思えるようなものばかりではなかった。
ひとつひとつ単独では大きなリスクではないかも知れないが、これだけ多種多様な有害リスクをしかも、
計算すれば妊娠2〜3ヶ月頃の最も影響が大きいと考えられる時期に集中して受けていたわけである。
「赤ちゃんは大丈夫でしょうか?」と問われたら、誰もが思わず「うーん」と唸ってしまうのは仕方がない状況であった。
ところが、その方には、まったく迷いはなかった。
赤ちゃんを授かったことを素直に喜び、
それ以上、何か具体的にこういった過去の有害事象の影響について訊ねようとはしなかった。
ごく普通に妊娠10ヶ月になり、普通に出産を迎えた。
何も異常のない元気な赤ちゃんであった。



その方は、3人目の赤ちゃんでなかったかと記憶している。
妊娠がわかっても、あまりうれしそうではなく、思わぬ妊娠であったことが傍目からも見て取れた。
何度かの外来診察でも、はっきりとは言わないのであるが、
産めない、産みたくないというようなことが何となく伝わってくるような感じが続いていた。
妊娠12週を過ぎれば、法律的な扱いが変わる。
妊娠中絶であっても、火葬埋葬などの「義務」が生じて「死産」とされる。
身体の負担を考えても、それ以前に結論を出された方がいいことを勧めてはみるが
一番大事なのは「気持ち」であるので、迷いがある以上、どうしようもないのは致し方なかった。
そして、妊娠12週を過ぎて、しばらく来院されなくなった。
ずいぶん、迷っておられたのであろう。
そして、2ヶ月ほどが経ち、その方は診察に来られたのであった。
妊娠18週になっていた。
「ずいぶん迷ったのですけど、やっぱり産むことにしました。」そう言われたのである。
そういった話を一通りした後、超音波で診察した。
そうしたらあろうことか、胎児の腹壁破裂という重大な異常が起こっていたことがわかったのである。
腹部の内臓がほとんど腹壁外へ逸脱しているという非常に深刻なものであった。
このまま妊娠を継続しても将来的な治療の可否や生命予後も深刻なことは言うまでもなかった。
もちろん、周りの負担も大変なことになることは一目瞭然であった。
「やっぱり中絶をしてください。」
そういう結論が出るのには時間はかからなかった。
誰も悪くはない。
「偶然」そういうことが起こったのである。

2010/01/28

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(6)

もう20年以上前の話になる。
今でも第一線で使われることがある薬なのだが、「シスプラチン」という抗癌剤がある。
この薬が、ちょうど、私が研修医の頃、臨床の場に供されるようになった。
学生の頃からの講義でも時々名前が出ることがあって、
いい意味でも悪い意味でもこれは画期的なすごい薬剤であった。

「排卵」という形で表面被膜が破壊され、腹腔内に自身の細胞をばらまく臓器である卵巣の癌は、
当時、非常に予後の悪い病気であった。
癒着もなく初期の癌と確信し、手術で問題なく取り切れたと思っても、1〜2割が再発した。
腹腔内で破綻しているような進行癌なら、一気に癌性腹膜炎や、多臓器転移、骨転移となり、
そうなるともって数ヶ月の余命でしかなかった。
ところが、卵巣癌のうち、特に「腺癌」などに対しての「シスプラチン」という薬剤の効果たるや、
まさに目を見張るすさまじいものがあった。

抗癌剤など、まだまだ「気休め」程度にしか考えていない臨床医が多かった時代である。
今までなら、あと「3ヶ月の命」と言われても仕方がないような、癌性腹膜炎、骨転移があり、
仮に「身体を半分切り取って」も、決して助けることができないような進行癌であっても、
癌が完全になくなったとしか思えない程に回復していくのを、
自分も含む進行癌に絶望する臨床医たちが、まさにその「奇跡」を目撃していったのである。
ただ、副作用も激烈であった。
こういった抗癌剤の激しい嘔吐を抑えることができる制吐剤は、今でこそ強力なものが存在するが、
当時はまだ、そういった有効な薬剤がなかった。
患者さんは、一日中、昼夜の別なく、洗面器を抱えて限りない嘔吐を繰り返した。
それなりの対処法が言われてはいたが、どれもまやかしのように、大した効果などなかった。
ただただ、励まし、見ているしかなかったのである。
腎毒性が強い薬剤であった。
生命を奪うほどの腎臓への副作用を抑えるためには大量の点滴輸液が必要で、
1日当たり相当の尿量を確保しなければならなかった。
ただでさえ体力が落ちている患者さんである。
点滴をしようにも血管が出ない上に、過去に何度もあちこち刺していることや、
薬剤のダメージもあって、血管は萎縮している。
なかなかうまく入らず何度も痛い思いをさせてしまう。
薬剤が薬剤であるので、すぐに血管炎を起こして点滴が漏れてしまう。
おまけに、白血球や血小板の減少などの副作用のチェックや輸液が多く、
利尿剤も使っているため電解質のバランスが崩れやすく、何度も採血が必要になる。
看護婦(師)には、患者さんの激しい嘔吐の理由が
「点滴がたくさんあるからだ、もっと減らしてあげたらどうか」と誤解され、
点滴の本数や採血の回数の多いカルテ指示を揶揄された。
この頃、私は、こういった患者さんの点滴指示や採血の仕事に追われていた。
診療に対する余裕などない自分は、病気をもつ人間ではなく、
「卵巣癌」という病気だけを診ていたのかも知れない。

何の検査をしても、もう、「癌」はない。本当にそう思えた。
この薬剤が世に出て、自分たちの目の前の患者さんを治療した多くの臨床医が、また、その患者さん本人も
もしかしたら本当に癌が消えたのではないか、治ったかもしれない、
この薬剤で、間違いなくそういう夢を見たのだと思う。

だが、やがて本当はそうではなかったことを思い知らされるのである。
手術で手のつけようがない進行癌であっても、痕跡すら見当たらないほどに消えた「癌」のはずであったが、
やはり最初の時点で取り切れていなかったと考えられたケースでは、ことごとく何年か後に再発してきたのである。
そして、再発してきた癌に対して同じ治療法を試みても、
徐々にこの「シスプラチン」も効果が薄れ、最後はまったく効かなくなってしまうことがわかってきた。
「癌細胞」に薬剤耐性が現れてきたのであった。

私が産婦人科医になって、Tさんは何人目かの卵巣癌の患者さんであった。
最初から診断はすぐについた。
10cmを超える大きさの明らかな進行癌であった。
一通りの検査の後、直ちに入院、手術になった。
しかしながら開腹した時点で、すでに腹膜播種(癌性腹膜炎)の状態で、
残念ながらいわゆる手の施しようがない状態だったのである。
手術は30分ほどで終わった。
病理診断のための少量の組織のみ切除して、閉腹するしかなかった。組織型は漿液性腺癌であった。
その2〜3年前であったら、余命長くて3〜4ヶ月の宣告になる状態だったと私にも思えた。

4クールほどだったと思う。
他の薬剤と組み合わせたシスプラチンを含む術前化学療法を行った。
そして、見違えるほどの癌の縮小がCTの画像からも腫瘍マーカーの数字の減少からも見て取れた。
それほどすごい薬剤であったのである。
そして、2度目の開腹手術。
前回、全く手がつけられなかった癌の腫瘍塊は、嘘のように小さくなっており、癒着の剥離も容易になっていた。
病巣を取れるだけ取る、取りきれないことは最初からわかっている、そういう手術であった。
それまでの末期癌の常識からすれば、手術をあきらめなければならないような状態から手術が「可能」な状態になる、
それだけでもすごいことであった。
そして、手術後、さらに6クールほどの化学療法を追加した。
4桁もあった腫瘍マーカーは徐々に正常値に近づき、やがて検出できないまでに低下した。
CTなどでも、もはや何も腫瘍塊や転移を疑わせるリンパ節の腫脹などが見当たらない、
癌が完全に消えた、そう思える状態となったのである。
そして、Tさんは元気に退院されたのである。

その後、何回かの維持療法を行った。
しばらく、まったく普通の生活がそこにあった。
そして、3年ほどして案の定、外来での検査で腫瘍マーカーが上昇を始めたのである。
シスプラチンを中心にした化学療法が飛び抜けた存在であっただけに、
まだ、いわゆる「セカンドライン」と呼ばれる「次の手段」としての有効な決め手は何もなかった。
一応は「効果」が期待できる他の薬剤でも、
最初は腫瘍マーカーが少しだけ気休めのように下がるのであるが、すぐに前の値を追い抜いた。
その後は次第に今度はその薬剤でもまったく反応する気配すらなくなってくるのであった。
Tさんは、次第に入院している期間が長くなり、やがてずっと入院という状態になっていった。
当時の私の上司は、基本的に患者さん本人に対しては「癌の告知」をしない方針だった。
今とは時代も違うのでそれが普通だったのかもしれない。
自分の体調は自分がいちばんわかる。
Tさんは、この頃になると自分の病気がもう治らないことを悟っていたのだと思う。
「自分は癌なのではないのか」
そういういう言葉を聞いたことはなかったが、それはお互いの暗黙の了解となり、
聞かない言わないがルールである、そういう接し方になっていく。
辛かったのだと思うが、努めて明るく振る舞っておられた。

やがて、体力が相当落ちてきた思える頃、Tさんの小脳に2cmほどの転移癌が見つかった。
臨床医として未熟な私には、もはや、かけてあげられる言葉は見つからなかった。
脳外科の判断を仰ぐことになったのだが、答えは「小脳半切、切除可能」ということであった。
しかしながら、手術そのもので生命に別状ないとしても、
当然、今までとは異なる重大な障害が出ることに間違いはないし、
完治を期待しての手術でないことも明らかである。
手術することが本当に本人にとっていいことなのかどうか、私には答えが出せなかった。

どうすべきなのか、そんな頃であった。
ある日、ナースステーションでいつものように仕事をしていた時、
耳を疑うようなとんでもない事件が起こったことを知らされた。
Tさんの御主人が自宅で頸動脈を切って自殺をされたというのである。
現場を見た方の話では、天井にまで血液が飛び散って、凄惨な状況だったらしい。
真実には絶えずごまかしようのない「重み」がある。
御主人とは何回かお会いしたこともあり、
少し神経が細い方だなあという印象はもってはいたが、やはり、悩んでおられたんだと思う。
が、とても、そのままありのままをTさん御本人には伝えられない、
それがナースも含めた皆の意見であった。
自宅に戻るにも自宅の状況も突然そうなったことも説明がつかないので、
「胃潰瘍で激しく吐血した」というふうに話したらどうかということになった。
やがて、葬儀などが落ち着き、病院に戻ってこられたTさんは、憔悴しきっておられた。
病室のベッドでお骨を胸に抱いて「おとうちゃんがこんなとこに入っちゃった」と何度も繰り返し、ずっと泣いておられた。
いかばかりの思いをされたのか、今となっても想像できない。

それからそんなに時間が経っていなかったと思うが、Tさんは「手術を受けます」という決断をされたのである。
Tさんがもはやすべてを悟っておられたことは、
あからさまな表現で伝えたことがなかっただけで、もう私にもわかっていた。
私から手術を勧めたつもりはなかった。
しなかったらどうなるかなど、もはや伝える必要もなかった。
「まだ死ねない」
手術を受けることにした理由をこう言われた。
訊ねると、「息子がこの春、大学受験で、その結果が出るまでは生きていたいから」
そうはっきりと仰られたのである。

手術はもちろん成功した。
小脳の転移癌は消えたが、小脳半切の障害が出た。
ただ、消えかかった命が残った。
息子さんの母親が残った。

大学名も受験日も合格発表の日もTさんに訊ねることはなかったが、
やがて、新聞で息子さんの名前を見つけたのであった。
名前を直接知っているわけではなかったが、それはすぐにわかった。
Tさんの一字をもらった名前であったからである。
(当時は地元合格者の氏名が新聞に掲載されていた)
「合格おめでとうございます」
そう伝えると、一瞬怪訝そうな顔をされたが、すぐにとてもうれしそうな顔をされたのをしっかり覚えている。
それから、ほんのしばらくだけ退院になったように思う。
そこまで命がつながって本当に良かったと思った。
私は、その後、程なくして病院を去ることになり、最期を看取ってあげることができなかった。
それは、今も悔いとなって残っている。

強い人であったと心の底から思う。
20年以上前の話である。
合掌。

2008/12/14

仕事として『お産をする』ということ

何時、何処にいても必ず連絡がつくこと。
どれだけ眠くても辛くても、必ず起きて診療すること。
病気をしないこと(難しい)。
何か異変が起こった時に必ずそれを克服できる技量と知識と経験があること。
自信を持ち過ぎず、冷静かつ謙虚に現状分析ができること。
産婦さんから信頼されること。
スタッフから信頼されること。
信頼に応えること。
誕生の場に自分もいるということ。
最初に赤ちゃんを抱き上げることができるということ。
取り上げた新しい命を母に手渡せるということ。
慶びを共有できること。

2008/08/15

63回目の終戦記念日

新しい生命が誕生する瞬間に立ち会うのが仕事である。
すべての赤ちゃんが元気に生まれてきて欲しい。

たったひとつの命が生まれるだけで、
そして、家族がひとり増えるだけで、
多くの人たちが喜び合い、希望や夢を持つことができる。
仕事の中で感じる真実。
それは、重い重いたったひとつの生命。

80年前、90年前にこの世に生を受けた、
たったそれだけが「理由」で
間違った価値観を強制され、それを信じ、戦争で散っていった若者たち。
炎で身を焼かれ、熱さや耐え難い痛み、飢え、絶望と孤独の中で息絶えていった。
その若者たちも、生まれた時には今と同じように、
多くの人たちが喜び合い、希望や夢に包まれた新しい生命だったに違いない。

たったひとつの生命がこの世に生まれ出るまでに
どれだけの人々の願いと思いが交錯するのかを考えた時、
一瞬で弾かれる引き金、
何もかもを破壊し、何万人もの生命、計り知れない人々の夢を奪い去る現実感の喪失したスイッチ、
そして、それらを命令する意志。
それらは狂気以外の何物でもない。

自分の仕事は、たったひとつの生命を出迎えることなのだ。


2008/03/23

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(5)

『心マ』・・・・・
心臓マッサージのことである。
経過の長い慢性疾患が徐々に悪化していき、治療の甲斐無く、心停止したような場合には
如何にがんばっても、体力そのものが限界に達していることが多い。
それは、私がまだ産婦人科医を志す前、研修医1年目の時のできごとである。

救急処置室。
12歳の女の子であった。
夕方だったと思う。
自転車に乗っていて、左折する大型トラックの後輪に巻き込まれた交通事故だった。
搬送されてきた時、すでにDOA。
Dead On Arrival。
到着時から、すでに心肺停止状態であった。
それを確認するやいなや、すぐに「心マ!」。
その日の当直だった整形外科A先生の命令が飛んだ。
足には大きな外傷があったが、上半身には大きなけがは無いように見えた。
すぐに私は心臓マッサージを開始した。
もうひとり当直に入っていた研修医のB医師が呼吸器マスクで酸素吸入を開始する。
A先生が「挿管するぞ、代われ」といい、気管内挿管が行われる。
そしてまた、チューブにバッグをつなぎ替え、B医師が人工呼吸を続けた。
てきぱきとルート(点滴)がとられ、「ボスミン!」、「イノバン!」、「型!血液交差!」などの指示が飛び交う。
「電気ショック!」二度、三度やるが、心拍は戻らない。
心電図モニター上は、心臓マッサージで押される度に、波形が出るだけであった。
10分、20分、虚しく時間だけが過ぎてゆくが、戻る気配はなかった。
40分、人工呼吸と心臓マッサージを続けた。
「もう、やめますか?」、そう言ったのは私だったと思う。
周りにいた誰もがそう思っていたはずであった。
「バカヤロー、子供は戻る。続けろ!」
A先生はそう言った。
さらに続けること20分。
心マを開始してから、1時間にもなろうとしていたその時であった。
「ピコン」
耳を疑った。
自律心拍が再開したのである。

医師があきらめたら終わる。

その女の子は、その後、手術も無事終わり、何週間かの後、元気に退院した。

2008/02/10

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(4)

その患者さんの名前ははっきり覚えている。
顔もはっきり覚えている。
その方にどんなことがあったのかも覚えている。
でも、どのようにそのたくさんの出来事が起こっていったのかが曖昧である。
あまりにもいろいろなことがあったからである。

最初、流産が3回続いたのではなかっただろうか。
習慣性流産(不育症)であった。
悩んでおられたことはわかったが、
他の患者さんほどいろいろ質問されることがなかったように記憶している。
習慣性流産の原因について、一通り検査の説明をしたのだが、
特に何かを希望されることはなかったように思う。

その後、確か、4回目の妊娠だったと思う。
今度は流産ではなかった。
妊娠10ヶ月の正期産で元気な赤ちゃんが生まれた。
ところが、胎盤が娩出しない。
強度の癒着胎盤であった。
癒着胎盤の診断が明らかになれば、胎盤の用手剥離を試みることになる。
すんなり剥がれてくれれば良いが、そうでなければ止血困難な大量出血になることもある。
そうなれば開腹手術が必要になるが、その準備の間にどんどん状態が悪化していく。
輸血が必要になったところで、そんな血液など、すぐにはままならない奥能登での診療では、
後手に回ることは「死」を意味することだってある。
用手剥離が大きな苦痛を伴うこともあり、
私は万が一に備え、短時間で手術に対応できるよう、
全身麻酔を導入してから処置を行うことにしていた。
過去の3回の流産手術も含め、これがこの方の4回目の手術室であった。
案の定、強固な癒着胎盤であった。
なんとか胎盤の除去はできたものの、連続的な大量出血が始まった。
すぐに人を集めて、開腹手術に踏み切った。
幸い、子宮の全摘にまでは至らず、右の子宮動脈の結紮のみにて完全に止血できた。
幸運だったと思う。

その後、さらに2回の妊娠があったように記憶している。
その2回とも流産であった。
6回の妊娠で5回目の流産である。

そして7回目の妊娠、この赤ちゃんは大丈夫だった。
元気に生まれたのである。
ところがである。
その前だったか、その後だったかが記憶にない。
上の元気だったお子さんに大きな病気が見つかり、
結局、治療の甲斐無く、その子が亡くなったのである。

それから、しばらく、外来に来られることがなかったが、
後日、話を聞く機会があった。

それは驚くべきものであった。
御主人と結婚された時にすべてを知っていた訳ではあるまい。
話の内容はこうである。
御主人の母は7人の子を出産した。
この御主人以外の6人は、死産だったり生まれてからすぐだったり、しばらくして何かの病気だったりで、
皆亡くなって、結局、元気で今に至っているのはこの御主人だけだったというものであった。

耳を疑った。
恐らくは、流産を繰り返す中で、この「事実」を知るに至ったのであろう。
「染色体の検査をしていれば何かわかっていたかも知れないですね」と問うと、
「私にもそれはわかっていました。
でも、そうすると、たぶんいっしょにいられなくなってしまうと思って検査ができなかった。」

何がいちばん幸せなのか、
何度も何度も妊娠して、その方が求めたものはいったい何だったのであろうか。
ただ、今、確信をもって言えることは、この患者さんが、とても強い人だったということである。

2008/01/01

あけましておめでとうございます。

手取川クリニックを開院して、2回目の新年を迎えることができました。
旧年中もいろいろな方々にお世話になり、感謝いたしております。
この場を借りてお礼を申し上げるとともに、本年もまた、よろしくお願い申し上げます。
まだまだ、至らない点が多いクリニックではありますが、
少しでも「手取川クリニックを受診して良かった」と言っていただけるよう
これからもがんばっていきたいと思っています。

2007/11/07

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(3)

その方が初診で来られた日、すでに43歳の後半だった。
すでに妊娠5か月、18週か19週位になっていたと思う。
元々、生理不順があって、妊娠しているとは考えもしなかったらしいが、
胎動を感じるようになって、妊娠に気付き受診されたとのことであった。
上には、もう高校生と中学生の子供がいるということであり、
外来での話は、何かはっきりせず、口ごもるような感じであった。
で、絞り出すように、さすがに産むことができないと言われたのであった。
妊娠5か月ともなると、「中期中絶」である。
いわゆる「掻爬(そうは)」するのではなく、「産む」という中絶になる。
法律的にも「火葬、埋葬」の義務を生じるようになる。
そういったお話もした。
さらにその方は言葉少なになった。
結局、「相談してきます。」といって外来を後にされたのであった。

その方が次に外来に来られた時、何歳か年上であろう御主人も一緒であった。
約1ヶ月が過ぎていた。
ずっと悩んでおられたであろうことが手に取るように伝わってきた。
「ずっと考えていたんですけど、やっぱり産んであげることができない。」
それが、御夫婦の結論であった。

ところがその時には、もう「妊娠21週6日」を過ぎてしまっていたのである。
法律的にもう中絶はできない。
そのことは前に伝えたはずであったが、いっぱいいっぱいで耳に残っていなかったのだと思う。
「迷っておられた間に、申し訳ないんですけど、もう中絶できる時期が過ぎてしまいました。
年齢のことは御心配だと思いますが、これから一緒に気を付けていけば何とかなると思います。
気持ちをしっかり切り替えて、前向きにいい赤ちゃんを産めるようにがんばりましょう。」
そんなふうに話した。
ところが、この日、帰って行かれた時の表情は、逆に何か吹っ切れたように見えた。
この前より少し明るくなっていたのである。
本当は産んであげたくて仕方がなかったのだ、そう感じた。
だが世間的にも社会的にも医学的にもいろいろなハードルがある。
結局、自分たちが踏み切れないことを時間が背中を押してくれた。

その後、その方は健康な妊婦さんとして、非常にがんばった。
44歳になっていた。
きちんと産んであげる自信がないから帝王切開にして欲しい、向こうからの申し出であった。
少し小さい赤ちゃんだったが、元気であった。

「高校生の息子が良く面倒をみてくれて、オムツも替えてくれるんですよ。」
1か月健診の時にそういって笑っておられた。
「この子はいなかったかもしれなかったんですよね。」
「孫だと言われる。」
そうも言っておられた

次の正月、その方から年賀状が届いた。
ひとり増えた家族の写真には素晴らしい笑顔があった。

2007/10/21

患者さんに教えられたこと、いつまでも忘れ得ない患者さんの話(2)

10年以上前の話である。

その方は、最初の妊娠であった。
妊娠32週か33週頃だったと思う、里帰りで初めて私のもとを受診された。
一見してそれとわかる「アトピー」で皮膚がとても荒れている患者さんであった。
問診で訊ねたところ、妊娠がわかるまではかなりの量のステロイドを服用されていたのだが、
妊娠がわかってから減量したということであった。
いつも通りの健診の風景であった。まず、超音波で診察をした。

だが、それはすぐにわかった。
胎児の心臓の大奇形であった。
紹介状にはもちろん何の記載もなかった。
超音波検査だけでは正確な診断までは不可能であるが、少なくとも生まれたらすぐに生命の危険があることだけは確実に思えた。
ほんの2〜3分前に初めて言葉を交わしたばかりの方である。
通常の出産に胎児が耐えられるかどうかも今の段階ではよくわからない。
この「事実」をこの方にどう伝えたらよいのか、そのことが頭の中を行ったり来たりしながら、カルテに文字を刻んでいた。
しばらく間があった。
すると、その方から聞きたくて仕方がなかったかのように矢継ぎ早に質問があった。
「私、いろいろ聞きたいことがあるんですけど、まず、この病院では自然分娩についてはどういうお考えなんでしょうか。」
「それから、陣痛促進剤なんですけど、私は絶対使って欲しくないので、それでもここで出産させてもらえるんでしょうか。」
「会陰切開なんですけど、ここの病院はどういう方針なんでしょうか。」

お互いが見つめているものの余りの違いに愕然とした。
完全に言葉を失った。
逃げたのかも知れない。
「わかりました。それはまた次にして、もっと大事なお話があるので、
今度、御主人かおかあさんにも一緒に病院に来ていただけないですか。」
そう伝えるのがやっとであった。

何日かしてから、その方は再診に来られた。
「大事な話・・・・・」
すでに何かを察しておられたのかも知れない。
私は、正直に「事実」を話した。
大学病院へ紹介状を書き、後を託した。
心臓の大きな異常の場合、子宮の中にいる胎児を観察するだけでは正確な診断は困難である。
まもなく、その赤ちゃんは生まれた。
大学病院でも治療が難しいということで、小児心臓外科に優れる別の施設へ搬送されることになった。
だが、それを待つ数日の間に、その赤ちゃんはチアノーゼが悪化して亡くなったことを知らされたのである。

そのまま、その方とお会いする機会はなかったが、2年ほどたってからであろうか、不意に外来に来られた。
それは、妊娠8か月ほどだったと思う。
「家族の都合で、ここでは産めないんですけど、その前に一度、先生に診て欲しいと思って。」
うれしかった。
それまでに2度しか顔を合わせたことがない自分を信頼してもらえたことより、
私が言いたかったこと、一番大切なことが何なのかを見つけてもらえたこと、
あの時、自分が本当に伝えたかったこと、言えなかったこと、その気持ちが通じたような気がした。
長い時間、超音波を診た。
「異常ないですよ。」
帰って行かれる時の顔は、2年前に会った時より、ずっと母親になっているように思えた。


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